フクロウの寝言
 
北京オリンピック雑感

北京オリンピック雑感

オリンピックには元々あまり関心がない。

夏の東京オリンピックの時も、日々増大する感染者数を眺めながら「この状況下でやるか普通」と思ったくらいのものだ。

今回の北京も、開始前から政治的な背景のゴタゴタがあり、やれやれといった気分だった。

だから、敢えて観戦するという気はなく、速報で流れてくるニュースで結果を知るくらいである。

 

それでも羽生選手のことくらいは気になったりもする。

4年前、「羽生結弦ここにあり !」といった感で圧倒的な滑りを披露した彼が、特に昨年からだろうか、怪我による故障に悩まされ、欠場が続いたりする状況を見るのは寂しかった。

絶対王者は常に絶対王者らしくあってほしいという、我儘な思いだということは認識している。

今回のオリンピックも、万全とは言えない体調の中で挑むことになった。

マスコミや世間が掻き立てる「三連覇」というスローガンは、どれほどのプレッシャーだったかと思う。

その一方で、彼にとってはもうメダル云々は意識の埒外にあるのではないかという気もした。

ここまで支えてくれた皆さんのため、という言葉は嘘では無いだろうけれど、本心は別のところにあるような気がしてならない。

若くして道を極め、頂点に立ってしまったら、後は求道者となるしか無いのではないか?

背水の陣のフリーで、あくまでも自身の目標として掲げた「前人未到」4回転アクセルに挑戦する姿からは、そんな印象を受けた。

試合後の彼に皇帝プルシェンコが贈った言葉は「君はすでにハニュウ・ユズルだ」だという。

余談になるが、その昔愛読していた川原泉の「銀のロマンティック…わはは」では、4回転(当時の呼び方は「クワドラプル」)は男子でも練習中に偶然成功したことがニュースになるレベルに難しい、幻の技であった。

それが30年経つと、トップレベルの男子はもはや跳べないと話にならないくらいの存在になっている。

人間の技術向上というか、人類の進化は凄まじいものだと実感する。

 

今回のオリンピックでは、冬特有の採点競技には付きものなのかもしれないが、ジャッジの不可解さも議論を呼んでいる。

特にスノーボードの平野選手の2回目滑走については、海外メディアが実況中に怒りを顕にするレベルだったというのだから、余程のことだったに違いない。

それでも、その場で怒りを露わにすることもなく、「え、見てませんでした?じゃあもう1回やるからよく見てて下さいね」と言わんばかりの3回目を完璧に決めてみせるのだから、「お見事!」としか言いようがない。

終了後の「今回の採点についてはきちんと説明したほうがいい」というコメントといい、非常にクレバーだという印象を受けた。

今後の活躍がますます楽しみだ。

昨日は、藤井聡太棋士が史上初の10代で五冠達成、羽生棋士の最年少記録を28年ぶりに塗り替えというニュースも飛び込んできた。

この先どこまで伸びていくのか、末恐ろしささえ感じてしまう。

 

一時代を築いた後、後から出てきた若手が追い越していくことに対する寂寥感は、レベルは違えど誰でも経験するものだろうけれど、そこにこだわりすぎないのが幸せに生きるコツではないかと思う。

新井素子さんの「チグリスとユーフラテス」の中で、伝説の宇宙飛行士・穂高龍一は言う。

「凄い奴なんて後からどんどん出てくる。記録はどんどん塗り替えられて、最初に成し遂げた人物の名前なんていずれ忘れ去られてしまう」

だから、自分が楽しめたかどうかの方がずっと大事だ、と。

人の物差しを基準に生きるな、というなのだと自分では理解している。

自分を認め、叱咤し、許すのはあくまでも自分。

それを忘れないようにしたい。

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